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親鸞聖人の教えと忍終不悔

木曜日, 11月 17th, 2011

假令身止 諸苦毒中

我行精進 忍終不悔 (大無量寿経)

たとい身は、諸々の苦毒のうちに止るとも、我が行は精進にして、

忍びて終に悔いじ。

親鸞聖人は、90年の生涯、お釈迦様の説かれた仏教以外には
教えられませんでした。

仏教とは、仏の説かれた教え、ということで、この仏とはお釈迦様
のことです。今日では、仏と言いますと、死んだ人のことだとみな
思っていますが、大変な間違いです。

仏とは、さとりの最高の位の名前であり、その覚りを開いた人を
仏とか仏様、というのです。この地球上では、お釈迦様以外には
仏のさとりをひらかれた方はありませんから、釈迦の前に仏なし、
釈迦の後に仏無し、と言われます。

そのお釈迦様が80年、教えていかれたことは、お弟子がすべて
書き残され、七千余巻の一切経と言われます。

では、一切経には、何が教えられているのでしょうか。
一切経を幾たびも読み破られた親鸞聖人は、次のように断言
しておられます。(次回に続けます)

親鸞聖人の教えは、親鸞会で聞くことができます。
親鸞会の法話案内は、ホームページをご覧ください。

親鸞聖人と、二種廻向

土曜日, 10月 15th, 2011

今日、親鸞聖人は、世界の光と言われています。

その親鸞聖人の教えのすべてが書かれているのが教行信証です。

教行信証の最初に、次のお言葉があります。

謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

「浄土真宗」と聞くと、多くの人は、「親鸞聖人がつくられた教え」

「数ある仏教の宗派の中の一つ」 くらいに思っている人がほとんど

ですが、それは間違いです。

親鸞聖人は、ご自身が浄土真宗を開いた、などとは夢にも思って

おられないことです。 親鸞さらに私なし、ご自身の考え、思いなど

一切語られなかった方が親鸞聖人です。ひたすら釈迦の教え、

弥陀の本願しか、とかれていないのです。

ゆえに、「浄土真宗」=真実の仏教=阿弥陀如来の本願のことです。

謹んで、阿弥陀如来の本願を、あきらかに致しましょう、と仰言り、

次に二種の廻向、と書かれています。これはどんな意味でしょうか。

親鸞会の親鸞聖人の750回忌法要で聞かせて頂いた内容です。

親鸞会の行事案内は、ホームページをご覧下さい。

親鸞聖人の教え 若不生者について

土曜日, 6月 19th, 2010

親鸞聖人は、生涯、釈迦の教え以外には教えられませんでした。
お釈迦様は、自分の先生である阿弥陀如来の本願以外には、説かれて
いません。弥陀の本願以外に、仏教はないし、親鸞聖人の教えもありません。
その弥陀の本願について、お話していました。

阿弥陀仏は、本願に、「若し生まれずは、正覚を取らじ」 と誓われています。
もし、生まれさせることができなければ、正覚(仏の命)を捨てる、と言われています。
ここで、「生まれさせる」の意味がハッキリいたしません。

ほとんどの人は、死んで極楽へ生まれさせることだろう、と解釈します。
ところが、お釈迦様は、本願成就文の中で、「即得往生 住不退転」 と
解説され、この「生」 は、私たちの暗い心を、明るい心に生まれさせることだ、
とハッキリ仰言っています。
それをまた、親鸞聖人が解説されたのが、愚禿鈔の次のお言葉です。

信受本願 前念命終
即得往生 後念即生

「本願を信受する」とは、本願とは、阿弥陀仏の本願、漢字36文字のことです。
信受とは、「本願まことだったー!」と、弥陀の本願に疑い晴れたことをいいます。
「まことなるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」 と、教行信証に書かれて
いることと同じです。

「前念」とは、迷いの命、後生暗い心、自力の心、無明長夜の闇のこと。
どれも同じで、果てしない過去から、我々を迷わせ続けてきた苦悩の根元です。

この続きは次回お話しましょう。
親鸞会では、本当の親鸞聖人の教えが説かれています。
親鸞会のことがもっと知りたい方は、ホームページをご覧ください。

親鸞聖人の教え(平生業成)

木曜日, 12月 17th, 2009

親鸞聖人といえば、平生業成。平生業成といえば親鸞聖人。
平生業成とは、平生に業事成弁する、ということで、平生に人生の目的が完成することをいいます。
今日まで、親鸞聖人ほど、人生の目的完成を徹底して叫ばれた方はないでしょう。

では、人生の目的とは何か。何事にも目的が大事です。目的がなかったら、やっていることに意味が
なくなってしまうからです。歩く、走る、泳ぐ、飛ぶ、みな目的あってのことです。目的地無しに歩いて
いたら歩き倒れあるのみ。ゴール無しにマラソンしていたら走り倒れ。周り中水と空しか見えない大海
に放り出されて、ただ泳いでいたら、土左衛門あるのみ。行く先知らずに飛んでいる飛行機は、墜落
の大悲劇あるのみだからです。

では、私たちが「生きる」「生きて行く」目的はなんでしょうか?
生きる目的を知らずに生きていたら、死ぬだけです。やがて歳をとり、病気になり、苦しんで死ぬ。
人生の目的を知らずに生きたならば、大悲劇あるのみです。どんな生き方をしたにせよ、生きる
目的を知らなければ、無意味です。生まれたと同時に死ぬのと、かわりません。

政治も経済も、科学も医学も、人間のやっていることはすべて生き方の問題であり、「どう生きる」
に関することです。それも大事ですが、そうやって苦労して生きる目的は何でしょうか。
「なぜ生きる」のでしょう。なぜ、自殺は愚かなのでしょうか。なぜ、臓器移植してまで生きる、
のでしょう。だれも答えられません。人生の目的を知らないと、答えられない問題だから。

その、すべての人間にとって、もっとも大事なこと、全人類の大いなる忘れ物、それをあきらかに
されたのが、親鸞聖人であり、平生業成の教えなのです。

親鸞聖人の教え 平生業成

火曜日, 12月 1st, 2009

親鸞聖人の教えは? と聞かれたら、「平生業成」 と答えたら百点満点です。

親鸞聖人の教えの一枚看板が、「平生業成」 だからです。

へいぜいごうじょう、と読みます。

平生の行い、という意味で使っている人がありますが、まったく違います。

平生とは、死後ではない、生きている現在、ただいま、という意味。

業とは、事業の業の字を書いて、仏教ではごう、と読みます。

人生の大事業、人生の目的、のことです。

何の為に生まれてきたのか、生きているのか、どんなに苦しくてもなぜ生きねば

ならないのか。これが人生の目的です。すべての人にとって、これ以上大事な

ことはありません。

最後の成とは、完成する、達成する、という意味。

人生には、これ一つ果たさねばならない大事な目的がある。それは現在完成

できる。だから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人ですから、

親鸞聖人の教えを、平生業成の教え、といわれるのです。

では、人生の大事業、人生の目的、とは一体、なんでしょうか。

親鸞聖人の教えとは

金曜日, 9月 25th, 2009

親鸞聖人の教え、といっても、仏教以外には全くないことを前回お話しました。

「親鸞、さらに珍しき法をひろめず」 「親鸞まったく私なし」 と仰言っています。

では、仏教とはどんな教えなのでしょうか。

仏教とは、仏のとかれた教え、ということです。仏とは、今から約二千六百年前

インドで活躍されたお釈迦様のことです。そのお釈迦様80年のご一生、教えら

れた教えを、今日仏教といわれます。

そのみ教えは、七千巻以上のお経に書き残されています。

そのお経すべてを何度も読まれた親鸞聖人は、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」 (正信偈)

お釈迦様が仏教をとかれた目的は、阿弥陀仏の本願一つであった、と断言

されています。

ですから、仏教とは、阿弥陀仏の本願一つ教えられたものなのです。

阿弥陀仏とは、お釈迦様とは違います。

御文章には、「ここに阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」

と書かれています。 大宇宙の数限りない仏を、三世十方の諸仏といいます。

本師本仏とは、先生の仏、師匠の仏、ということです。

お釈迦様も三世十方の諸仏の一人ですから、お釈迦様も、阿弥陀仏のお弟子、

ということになります。 弟子の使命は、先生の願いをお伝えすることだけですから、

お釈迦様は、先生である阿弥陀如来の本願をお伝えすることを、生涯の任務と

されたのであります。

ですから、一切経には、阿弥陀仏のことばかりが褒め称えられている、と天台も

次のように言っています。

「諸経所讃 多在弥陀」 (一切経には、阿弥陀仏のことばかりがほめたたえられ

ている)

だから、仏教とは、阿弥陀仏の本願一つが教えられており、仏教を聞くとは

阿弥陀仏の本願一つを聞く、ということです。

お釈迦様が生涯、弥陀の本願一つ教えられましたので、親鸞聖人も一生涯、

阿弥陀仏の本願を説き続けられたことはいうまでもありません。

では、阿弥陀仏の本願とは、なんでしょうか。

さらに親鸞、珍しき法をひろめず

水曜日, 9月 2nd, 2009

親鸞聖人は約800年前、京都に生まれられ、90歳で亡くなられました。

その90年間、いったい、何を教えていかれたのでしょうか。

親鸞聖人、常に仰言っておられたお言葉が、

「さらに親鸞珍しき法をひろめず、釈迦の教法を我も信じ、人にも教えきかしむるばかりなり」

でありました。

「この親鸞の伝えていることは、釈迦の教えだけだ。これ以外になにもない」と言われています。

親鸞聖人の教え、とか、浄土真宗、と聞きますと、なにか珍しい教えのように思う人もある

かもしれませんが、そうではないのです。 釈迦の教法、仏教以外には、なにもないのです。

お釈迦様の教えられたこと以外には、何一つ教えられなかったのが親鸞聖人です。

「親鸞、さらに私なし」とも言われています。

自分の考え、思い、など、まったく無い、ただお釈迦様の教えを正確に伝えられた方だと

いうことがわかります。

では、お釈迦様の教え、仏教とは、どんな教えなのでしょうか。

親鸞聖人の言葉

火曜日, 7月 14th, 2009

親鸞聖人が言い残したとされる言葉は、とても多く存在します。
また、それらの言葉は親鸞会で親鸞学徒が朝晩拝読するものですので、学徒にとってはなじみの深い、よく知られている言葉です。今回はそんな親鸞聖人のお言葉をいくつか紹介します。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
(総序)

弥陀の誓願まことだった、本当であった、ということで、弥陀の誓願に、微塵の疑いもなくなった親鸞聖人の叫びです。そして、「人生は短い、くだらん理屈をこねてもたもたしているうちに、あっという間に臨終だ。早く早く、弥陀の誓願を聞きぬきなさいよ」と勧めておられるのです。

また、こんなお言葉もあります。

「 真心徹到するひとは 金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり」

人は、何かを信じなければ生きてはいけませんが、金さえあればの金信心、名誉や地位の信心、恋人、結婚、いい会社に就職すればきっと幸せになれる、というような信心は、死ぬまでキリがなく、これで本当に満足できたということがない。いわゆる、死ぬまで求道、死ぬまで不平不満がなくなりません。

しかし、真実の信心(真心)には、徹到ということがある。徹底して到った、行くところまで行き着いた、完成した、卒業した、ゴールに入った、人生の本当の幸福(金剛心)を獲得した、ということがあるのだ、この信心決定こそが本当の人生の目的なのだ、ということを教えられているのです。

世界の光である親鸞聖人の教えを、正確に、速やかに、1人でも多くの人にお伝えする、これが浄土真宗
親鸞会結成の目的なのですね。

なぜ幸福になれないのか?親鸞聖人の正しい教えとは

土曜日, 6月 20th, 2009

いつの時代もすべての人は幸福を求めて生きています。そして懸命に努力しています。それなのにどうして、人は幸せになれないのでしょうか。それは、「人生の目的」と「生きがい」を間違えているからだと、釈尊も、親鸞聖人も教えられていることなのです。これは親鸞会の勉強会で学んでいることです。「人生の目的」と「趣味や生きがい」の相違を知っている人は少ないかもしれません。

希望の大学に合格する。
安定した職業につく。
理想の恋人を獲得する。
外国語やパソコンをマスターする。
スポーツに熱中して国際的な大会に出場する。
芸能界にはいって有名になる。
行政府や立法府で国の経営に参画する。
介護や福祉の仕事について働く。
大金持ちになる。
幸せな家庭を築く。
病気を克服して健康をとりもどす、など・・・

これは具体的な目標である生きがいであり、人生の目的とは明らかに違うのです。その違いは大きく分けて、次の3つになります。

(1)趣味や生きがいは人それぞれだが、
人生の目的は万人共通で唯一のものであること。

(2)趣味や生きがいには、金輪際完成ということはないが
人生の目的には完成があること。

(3)人生の目的は、臨終に達成されても
人生の勝利者といえるものであること。

趣味や生きがいは人それぞれ。上から強制されたり、他人に合わせる必要はありません。農業に力を入れる人もあれば、都会で働く人もいます。百人百様、人それぞれであっていいのです。
これに対し、人生の目的とは、万人共通唯一のものなのです。
これは「なぜ、自殺してはならないか」の答えであります。
日本人も、中国人も、アメリカ人も、ロシア人も、生命の重さに、差別はありません。すべての人は、幸福になるために生きています。
「人生の目的」は全人類の究極の関心事であり、親鸞聖人が明快に教えてくださったことです。親鸞会ではこの親鸞聖人の正しい教えを皆で学んでいます。

親鸞聖人の言われる「他力」とは何か

水曜日, 5月 13th, 2009

親鸞会では、高森顕徹先生より親鸞聖人の教えを学んでいます。

「他力」という世間でも使われる仏教用語がありますが、多くは誤解されて用いられています。

「他力本願ではいけない、自力更生でなければならぬ」などという言葉の使い方に私たちは慣れ親しんでいますが、親鸞聖人の言われる「他力」とは、決してそのような意味ではありません。
本来、仏教で言う「他力」とはどんな意味かご存知でしょうか。親鸞聖人は「『他力』と言うは如来の本願力なり」(教行信証)と明示されています。如来とは、阿弥陀如来のことですから、阿弥陀如来の本願力のみを他力というのです。
阿弥陀如来とは、大宇宙のあらゆる仏の先生です。親鸞聖人は、「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を満てたまう」力である、つまり、何のために生まれ、生きているのか、なぜ苦しくとも生きねばならないのか分からない。死に直面すると真っ暗な心です。生きている現在ただいま、この後生暗い心をぶち破り、明るい日本晴れの大安心にするお力こそ、弥陀の本願力(他力)なのです、とおっしゃっています。

もちろん、「衆生の志願を満てたまう」とは、食欲や睡眠欲などの私たちの欲を満たすという事ではなく、「永遠に変わらない幸福にしてみせる」という、弥陀の崇高な志願を、衆生の上に満たしてくださるということです。ですから、弥陀の本願力に救い摂られたならば、苦しみの人生が、歓喜あふれる人生になるです。
人間に生まれたのはこれ一つであったと、人生の目的が完成し、矢でも鉄砲でものファイトがわいて、たくましい人生が開けるのです。
他力に生かされた親鸞聖人のご生涯を知れば、明らかですね。

「他力」が弥陀の本願力のことを示すことはご理解いただけたと思いますが、時々自分の力以外をすべて他力と思い、太陽の働きや雨や風や空気、その他自然の働きもすべて他力と思われる方もおられますので、それは違うことを親鸞会では親鸞聖人のお言葉を提示して伝えています。
なぜなら、もし太陽や自然現象をすべて他力とするなら、干ばつや地震や台風で人命を脅かし、財産を失わせる時、それが他力、阿弥陀如来のお力とすることは、大慈大悲の阿弥陀如来に対する濡れ衣といわねばなりません。
もちろん、自然の力や人々の協力の恵みに感謝の気持ちを持つことは大切ですが、これを弥陀のお力と思ってはならないのです。